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一座はしづまり返つていた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つていなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いていなければならぬとは!
房一はふと自分に返つて訊いた。
と、小谷は人差指と中指を二本突き出して見せて、
練吉は一人で感心し、それでも足りないと見えて、房一に呼びかけた。
二人は夜ふけの戸外に出て下手の渡船場の方へ路をとつた。月はなかつたが空は一面の星で外は案外に明かつた。房一は先に立つて河沿ひの土堤の上を歩いていた。夏の間に生ひ茂つた雑草が路が見えない位になつて、その葉先がうるさく彼等の足をこすつた。房一の手にしている自転車用の電燈の明りは雑草の頭を、時には横に外れて、うす暗い中にほの白く浮き上つて見える広い河原の上にたよりない光を投げた。房一は時々うしろをふりかへつて見た。老父は尻をはしよつて、黙つてうつむき加減に歩いていた。それは恐く小さい、又何となくかつちりしたものだつた。房一はあの日に焼けた真黒い膝小僧までがはつきり見えたやうな気がした。そして、そんなに小さい者としての感覚がありながら、同時に房一は子供の時分父親につれられてこんな夜路を歩いていたときの、父親が非常に巨おほきな身体をしていて、力もこの周囲をとりまいている夜の深い脅おびやかすやうな印象をふせぐには十分だと云ふあの子供つぽい切ないやうな信頼の感じ、それをまざまざと思ひ出していた。何かしら温い、何かしら幸福な感覚が深くまつすぐに房一の胸を走つた。この感覚は渡船場で針金についている綱をひつぱつて船をたぐり寄せたときにも、老父が船の後部に腰を下して、房一が慣れた手つきで綱をたぐりながら、黒い温かさうな水の上を渡つているときにも、房一の胸の中につゞいていた。実家について、老父や起き出た家の者に二言三言挨拶して、やがて房一一人でもとの路をかへつて来る頃、彼は又日頃の心の状態にかへつていた。そして、「医師高間房一」が彼の中で目覚めて来た。渡船場の黒い温かさうな水の色はさつきと同じやうに彼の眼の前で光つていた。たぐりよせる綱のさやさやと引擦り会ふ音はさつきと同じやうにあつた。彼はそれらに注意深く耳を傾け、眺めた。瀬の音が河下の方から鈍く匍はひ上つて来た。それにつれてかすかな震動があたりに響いているやうに思はれた。何を考へるともなく深い沈思の蔭で蔽はれていた彼の浅黒い顔に突然或る明い微笑が現はれた。彼はしつかりと足をふみしめるやうにして、土堤の上の路を、雑草の中を帰つて行つた。
房一の出先きで起きたこと、何かしら普通でないその事を理解しようとして、盛子は房一の顔をまじまじと見まもつた。
「やつぱり、あんただつた」
間もなく彼は、こゝからよりもあの路からの方が、河原で一人で働いている自分をはるかに見つけ易いことに気づいた。瞬間彼は、この広い河原に自分の隠れこむ場所はないかと探すかのやうに、きよろきよろあたりを見まはした。だが、自転車の男は崖上の路に気をとられているのか、まだこちらに気がつかないやうだつた。徳次は下向きになつた。見まいとした。けれども、何かしら気になつて、顔を紐か何かで上うは向きにひつぱられるやうであつた。
房一も彼等の仲間であつた。だが、彼はその不器用な竿の操り方と、首の短い、肩幅のむやみと広い、上半身にくらべて不釣合に短い両脚や、ぐつと突き出している下腹部(それは服を着た時に堂々とした押出しに見えたけれども)、そんな特長のある身体つきが、彼らしい不様ぶざまな身ごしらへのためによけい目立つて、例のおきまりの大きな麦藁帽子や白シャツにもかゝはらず、遠くからでもすぐそれと見分がついた。彼はいかにも新参者らしく真新しい手拭を首にかけて、それを顎の下で変な形に結んでいた。彼にも、他の者に共通な、あの幸福さうな仔細しさいらしい表情が見られた。少年の頃恐しく敏捷だつたにもかゝはらず、近年とみに肥満して来たので、動作が何だか不自由さうであつた。彼は水中の石苔に滑つて何度か転んだ。彼は以前の水遊びを、その頃の巧みですばやい身ごなしを忘れ果てたかのやうであつた。
ところが驚いたことにはこの男は、房一があらゆる初対面でやる鹿爪らしい挨拶の文句を今やはじめようとしたときに、いきなり前に立ちはだかるやうに、と云ふより、殆ど気づまりのするほど真正面に近々と顔をよせて、おまけに露骨に房一の顔を見入りながら、
徳次は何かしら話に困つていた。で、彼は真面目な熱心な目つきで犬を眺めた。ところが、この犬まで普通のものとはちがふやうに思はれた。それは確かに「医者の犬」だつた。短い白毛の生えそろつた地はちつとも汚れていなかつた、茶斑の所は艶があつて上等の織物の模様みたいであつた。そして、全体に清潔でゆつたりしていた。
ざつと四十人近い客数であつた。その半ばあたりへ来ると、直造は一々前まで行くのを止めて、ふりかへつては「山下さん、お次へどうぞ」と云ふ風に名を呼びはじめた。だが、房一の所へはなかなか来なかつた。大部分の客が席に居並んだ頃になつて、房一は漸く自分を呼ぶ直造の稍しやがれた声を聞いた。
五