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それは莫迦げたことにちがひなかつた。だが、その莫迦げた習慣の中に今房一は身を以て入りつゝあるのを感じた。
ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出いでになりますと尋ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことはなかった。
と、全然ここの温泉を軽蔑しきっていたそうで、婆さんが絶え間なくタオルで全身摩擦しながら意地ずくでつかっている温泉とは何度ぐらいだろうと興にかられたが、調査もせずに引越した。
「もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます」
診察室に出てみると、三十歳前後の一見して重症の貧血だと判る農夫が待つていた。房一にはその男が近在のどこの部落の者だか心覚えがなかつた。開業してから七八人目の患者だつたが、これまでのは町内の者が半ばお義理から、半ば好奇心から房一の診察をうけに来たのにすぎないので、この男のやうに見覚えがなく又相当重症の患者にぶつかるのは今がはじめてだつた。
ちょうどその時我々は郵便局の前に出ていました。小さい日本建にほんだての郵便局の前には若楓わかかえでが枝を伸のばしています。その枝に半ば遮さえぎられた、埃ほこりだらけの硝子ガラス窓の中にはずんぐりした小倉服こくらふくの青年が一人、事務を執とっているのが見えました。
だが、それがこの土地には縁がなく、遠い四国のことだと知ると同時に、彼の興味は消えてしまつた。彼は又、「あん」と小莫迦にした風に頭を下げて、わきへ行つてしまひかねない時の徳次にもどつていた。そして、今泉も話すべきことはもう話してしまつた。彼は次の聴手を探す必要がある。
房一はいかにもそれがやり切れない、と云つた風に吐き出すやうに云つた。つゞけて、
「随分早いのね」
その日、河原町では早朝から何かしらざわめいていた。町の裏手に迫つている山々はちやうど東側にあたつていたので、朝の日は河原町の上に光を投げて家々の白壁を明く浮き上らせる前に、町の西方にひろがつた盆地の端に低く長く横はつている小高い丘陵地(それは最近切り倒された雑木山であるが、町からはかなり遠いので、何だかそこだけが茶褐色の埃を浴びているやうに見えた)に最初の薔薇色の光を投げかけた。空にはきれぎれの雲が浮かんでいた。それはどこを向いて流れているとも判らないほどゆつくり動き、動くにつれてだんだん形を変へ、うすれ、又新しい雲がどこからか生れていたが、それもゆるゆると消えて行くのであつた。
尿には蛋白質はなかつた。排便を顕微鏡でのぞいてみた。いる、いる。蛔虫に十二指腸虫の卵がうんとこさ見えた。
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
と、無邪気に、呆あきれたやうに云つた。